人を切るのは是か非か? 僕が思う武士道精神とからめて無責任に論じてみる!

こんばんは、人斬りです にゃは☆ ちょっと胃にもたれそうな重い話が続きますが、僕の中でタイムリーなんで空気読まずに書いちゃいます 笑!

昨日少し業務的な話を複数人でお話していたとき、ある話の折で「やっぱり、使えない人は切ったほうが良いのかもねぇ」というような話が出まして、確かになあと思う反面、別の見方によっては「切らないほうが良いよねぇ」という事もあるなと反射的に思ったんです。

それを後で頭を整理すると、そう思う理由は単純に可哀想だからだけではないなと思ったんで、僕が思う所謂切る・切らないの話を書いて行こうと思います☆

まずメリット、組織としては当たり前ですが、悪貨は良貨を駆逐すると言われる通り、いることによってのデメリットが明らかな場合、組織を守る為にも必要です。不要なものを抱え込みすぎて破綻するような事があれば本末転倒ですし。

じゃあデメリットは? それは残った人たちの気持ちに残る可能性がある「不安感」と「不信感」です。

それが蔓延るとどうなるかというと、自身がいるこの間はつつがなくやれればいいや、後は知らない〜♪ という思考が大多数になり、本来は三人よれば文殊の知恵になるレバレッジ効果が、硬直した石のような組織になりにっちもさっちも行かなくなります。

そのどちらにも言えるのは、必ずそうなるというのではなく、あくまで可能性であるということです。つまり、「なんであの人切ったんだ?」とか「なんで、明らかに悪化させているあの人が切られないんだ」というのは、常に人の数だけ同じような気持ちを抱く分、正解が無く厄介な問題です。

ここまで書くと、そんな事当たり前のじゃん? だから悩みは尽きないんだよと言われそうですが、ただ、僕はこれらの事を実はかなりシンプルな思考にまとめています(なので気持ちが楽になってます)。

その思考とは、人を切る場合、人を切る覚悟と同時に、人に切られる覚悟も同時にしなければならないという事を自覚する、ただそれだけです。

逆にその覚悟が同時に出来ないのであれば、人様にお譲りしたほうがみんな幸せで尚且つスムーズです。

この内容は、例えば、この話にとどまらず正直人間関係など全てにおいて言える事ですが、僕は自分が人に対して行った全ての事は、必ず自分もされる事を想定します。なので、どうしようか悩んだ時は自分にそれをされる覚悟はあるかを問います。もし覚悟が上回れば全力で踏み込みますが、覚悟がなければ緩くやる感じで。

これは物騒な例えになりますが、人を切る、というのを人を斬る、に置き換えれば分かりやすいのかも知れません。実際には血は流れませんが、経済的に殺すのと同義ではあるので。

そんな残酷な事はしてない、会社から言われた事を実行に移しているだけだよ、という意見もあるとおもいますが、でも実際問題はやってることはその通りで、手を血で汚すのは実行者のあなたです。

やはり良いのかどうか、理念や良心と相談して、違うと思ったら別の方法を探し、致し方ないと思ったら長く苦しまないように一瞬で、またはハラキリであれば、ちゃんと介錯をつけるなどの優しさは欲しいです。

どちらにしろ抜刀は最後の手段だと思います。だって抜いたらどちらも無傷では済まないですし…。また殺す側の必然として、殺される側になり得る必然も恐怖もまた存在するので。

みんなお互いに見えないけど、刀を持っているんだという自覚があり、いつでも抜刀出来る覚悟を持ってさえいれば、そうそう変な事は出来ません。多分。

実際、この理解を抜きにしてしまうと、恐らく僕らはこれらよりもっと残酷な事を無邪気に出来てしまうと思うのです。

武士道の究極の極意は、敵を作らない事、刀を抜かずに勝つ事です。是非こういう問題は、現実的に抜刀して凄惨な現場になる前に対処したいですね。

明治維新の頃の政治家は聖人君子が多いというイメージが僕の中でありますが、民衆と政治家の間にこういう空気が漂っていたからかも知れません。

僕? 僕はただ楽しくお仕事をしたいだけです、まったりのほほんと…なので本当はこういう事は書かない方が良いんですが、でも何かあればかかって来…ザシュザシュギャアアアアア!!! ←友人含む近くにいる人全員に滅多斬りにされてる音

ごふ。しかし、こんなん書いててどこが内容をマイルドにするなんだ??


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