
なんか最近、教育ということことで立て続けに考える事がありましたので、ちょっと自分の意見をまとめてみようと思います。
一言で教育といっても、親子から始まり、学校、社会と、その役割、目的も様々です。
その中でも今回は、師弟教育の本質である守破離の離の部分。「自立する」ということに主眼を置いて書いていこうと思います。
ところで、教育によって自立させる事は難しいと考えられる方は多いのではないでしょうか?
また、何故そう考えてしまうのでしょうか?
まんだらけの古川社長が、親子の教育についてい語られてた中で、もちろん子育ては尊いものであるという事を踏まえた上で「親は、生まれた子に愛情をそそぐと同時に子への支配も含める」というような事を仰ってて、ああ、自立できないのはそういう事かも、と妙に納得した事があります。
僕は未婚で子供もいないので、親の気持ちは推測するしかないんですが、確かに一般的な親って、子供が成長するのを喜びますが、それと同時に独り立ちせず、ずっと子供でいて欲しい、束縛したい。という感情も持ち合わせているような気がします。
大好きなおもちゃでも、彼氏、彼女でも、自分色に染めたくなる、囲いたくなるのは人情でしょうしね。
最近、「寂しすぎてレズ風俗店に行きましたレポ」という漫画を読みました。これは、投稿サイトpixivで閲覧数480万を超える永田カビさんのレポを書籍化されたものです。
内容を簡単に説明すると、女性向けの風俗レポ、、ではなく、物語は、鬱、摂食障害をもつ作者が、ホテルの一室で風俗嬢と対する所から始まります。
そこから時間を遡り、何故、ココロの病を患ったのか、そして何故、レズ風俗に行こうと思ったのかを、つぶさに書かれてある自伝的な漫画です。
その中で、何度も「親から見て良い子でいなきゃいけない」と思う事が呪縛になって、それが苦しくなっていた。と綴っています。
ある人には当たり前に出来る、自分の本心を隠さず話す行為でも、何かに縛られると、ここまで難しいものなのか、と考えさせられます。
僕自身も、20〜30代は、自分の常識と信じている思い込みからの脱却はテーマとしてた事もあってか、読後、なんか筆者が、ものすごく愛おしくなりました。もちろん友達にはなれないでしょうが。
親の支配はあったかも知れません。子供の時はなおさら違う選択肢は視野にないかもしれません。じゃあ親の教育方針が間違ってたのか? というと、別の因子もありますし、一概にもそうとは言えません。子供一人立派に育てるのは本当に凄い事だと思います。
結局のところ、結果はそうであったという事実だけは目に見えますが、本当に大事な、その経緯やプロセスについては、その当事者たちすらも、何が正解か、何が間違ったかが分からないのです。
よく言われるいい教育というのは、結果よりプロセスを大事にします。けれども大多数は、可愛さ、過保護さからか「正解を提示する(押し付ける?)」教育になっています。これは「失敗する」ことを排除することにも等しく、誰しも「経過を黙って見守る、失敗した時にそこから学ばせられる」ほど、相手を突き放せられません。そして、僕も含めて受け手もそれに耐えられません。
ここで、、「寂しすぎてレズ風俗店に行きましたレポ」で、作者は大学を中退し、その後摂食障害になりますが、作中に、
「所属する何か」「毎日通う所」がなくなった事が無性に不安だった
「所属する何か」、「毎日通う所」=自分なのだと思っていた
自分の形を支えていたものを失って消えて空気に溶けそうだった
と、おっしゃっています。でもこれって「いい大学に入って、いい会社に就職するのが幸せ(それを踏み外すと不幸)」のような、「正解を提示する」教育が前提にあるような気がしていまして、それらが強迫観念になり、寛容性や多様性を排除してしまう原因となっているような気がしています。
少なくとも、「失敗する」ことに関して僕やあなたや世間が「お互いに、いい勉強をした」と心から思うくらい寛容であれば、このような不幸は少なくなるはずです。
ところで、僕が思う教育のプロセスというのは、どの場面でも、どのジャンルでも、最初書いた通りゴールが「自立する」が前提にあります。
しかし、守破離の考えをそのまま実行すると、たとえば寿司職人みたいに、10年かかって一人前みたいな世界になってしまいますと、失敗だった時のリカバリが難しく、今の時代に合いません。また、親や師の言う事が絶対だという誤った判断がされるかも知れません。
僕は、本来の学習というものは、誰かから与えられた問いに、与えられた答えを出すものとは思っていません。ましてや、答えは与えるものでも、与えられるものでもありません。
受け身の教育は、怖いです。
ちょっと前からブラック企業に勤めている人のレポートや漫画などが検索すれば沢山出るほどに話題になっています。支配が前提にある教育。これだけでも間違った教育の怖さというのは分かると思います。
よく、ブラック企業の教育が「宗教のようだ」と言われることが多いのは、「宗教」という言葉の裏側に、「洗脳・マインドコントロール」というイメージがあることによるためだと思います。そして、「洗脳」とは、「一方の価値観を無条件に押し付ける(受け入れる)」ことで成り立つのです。
なぜ部外者が、彼らに対して違和感を感じるのかというと、その言葉が自身の言葉として発せられていないからです。同じ言葉でも、自分の中でちゃんと学習し咀嚼できているものは、聞き手としても確かな重みがあります。それに、同じ内容を別の言葉でしゃべることも可能です。
本当の学習というのは、自分で作った質問に、自分で正解を見つけだす作業だと思っています。ですので、教育するとなった場合は、そのためのお手伝いをする。というのが原則である、と考えます。
そういう意味では、元来教育すると言う事は、どこまでいっても、たとえ親だったとしても、答えそのものを教えることは出来なくて、せいぜい教えられるのは、ほんのちょっとだけ先を行く者としての、自分が導きだした解き方のヒントくらいなのかもしれません。
それは、社会のルールを伝える事も含めて、知識や理論より、それでも、やりたい事をして良いんだ、とか、言いたい事を言えるようになろうね、だったりとか、自分はここに居て良いんだという実感だったりとかのほうが、案外重要なのかもと思ったりします。
これは、別に親子だけてはなく、仕事でも当てはまります。
大多数の普通の人は、会社員をやってて出世していくと、あるタイミングから自分の実務能力だけではなくチームの実務能力が求められるようになります。それは、要するに専門スキルだけではなく、マネジメントのスキルが必要になってくるのですね。
当たり前ですが、マニュアルや答えがないことも多々あります。それに直面した時、動かないものを無理やり動かすのは疲れますし、自主的に動ける人を増やしたほうが効率良いですし、ラクです。相談相手も増えますしね。
そのために後進を育成していくのですが。
そうはいっても、まあ、、。
出世競争では相手を支配下に置いたほうが有利になるし、自分の立場が危うくなったら怖いと思うでしょうし、勘所の悪い人に教育するのはしんどいですし、医療も教育も相手を「依存」させたほうがお金になるし、相手より上に立てる快感みたいなのもあるというのは、重々承知なんですけれどね(^◇^;)。。
僕も、それはビジネス上では否定しませんし、出来ません。僕を含めて、人って怠惰ですし、自分の熱量で自走できる人はごく少数だと思いますし。実際に「恐怖」って何かの動機やお金になる訳ですし。
ただ、本質が支配であるにも関わらず、それを隠し「これが愛情」「あなたの為」などと偽るのは、ただの詭弁でしかないと思ってます。
また、言葉にしてしまう事で自己暗示も強固になるため、間違いに気づかず、より自身も相手も苦しめることになるのでは、と危惧します。
もしかしたらそれらは、教育という名に含まれる、薄ら暗い感情に目を向ける事で、もしかしたら、今ここにある負の連鎖を断ち切ることが出来るのかも知れません。
「愛」の本質って何でしょうね? その言葉の行間にある何かが、教育の本質と重なるような気がしてます。
【参考サイト】
寂しすぎてレズ風俗店に行きましたレポ
http://matogrosso.jp/privaterepo/01.html
宇宙全史
https://mandarake.co.jp/publish/space/