普通って何? 善悪って何? って疑問から始めて最終的には人のココロを読む話。〜そして世界平和へ〜

なんだこのタイトルは? とお感じだと思いますが、別々の事を話しているようで、全ては繋がっているよという話をしていきます。

マクロな事象はミクロな事象の反映です。国同士の喧嘩とかは身近に起こる遺産相続の揉め事や、はたまた大人の陰湿なイジメ、子供のケンカと何も変わらないんです。

つまりホントの平和を願うなら、過酷な地域でボランティアしなくても、覆面を被って正義の味方にならなくても、今目の前に見えるご近所トラブルや個人間のしこりを解決してくだけで、今まで見た事がない平和な世界がその人の中で実現するのです。逆に世界平和を声高に叫んでいても、身近なトラブルをそのままにするのであれば、今までと何も変わらない訳です。

例えを挙げますと、仕事に没頭して家族や自分の問題を顧みない人は、SMAPの解散報道や福山さんのご結婚で会社休む人であったり、上記の世界平和を声高に叫ぶ人などと本質的には何も変わらないんですよね。

なので、僕もあなたもすでに陥っているであろうな壮大な自己欺瞞に気をつけようという事なんですが。まあ、どうしたいのかはその人その人の自由なので僕がどうこう言える事でもないんですが。。

普段日常で会話をしていると、「普通って、○○だよね」とか、「これは良いよ、悪いよ」とかよくつかうと思います。僕も普通に使いますし、別にそれを悪いとか言うつもりは全く無いです。

でも実際問題皆さんって、この普通、良い、悪い、の定義ってどのようにされているんでしょうね。あくまで皆さんが言う「普通」というのは、まあ辞書の通りで広く通用することを言うと思いますが、その定義ってだれがされているんでしょうか?

僕らって、結構、異端であるとか普通でないという状態になる事を極端に恐れますよね。それが悪いという訳でもなくもちろん一人では生きていけませんし、不要な誤解や争いは避けなければならないので、所謂処世術として理解しているのは必須です。ですが、それ以上に今いる自分の道や日常から離脱することを根源的な恐怖と捉えてる方って多いのではないでしょうか?

今回は前回みたいに哲学とかではなく、より賢く生きる為に必要な智慧になるように、具体的に普通、善、悪の定義について書いていこうと思います。

マーケティングでは、自社の強みや立ち位置を設定・確認する為にポジショニングマップを作ることがあります。これは一般的に2軸の座標軸に競合他社を配置して、その中で自社を置く事で曖昧に語られるそれらを戦略上明確化するものです。

Graph_1

こんな感じのマップがあったとして、

Graph_2

例えば、そのなかにマクドナルドとモスバーガーを入れるとしたらこんな感じになりますでしょうか。

と、なると同じハンバーガー屋さんであっても、そもそもの店舗の設計思想、社員への教育思想も全く違うというのが容易に想像出来ると思います。

例えば、マクドナルドはデフレ化で安く食べ物と場所を提供して拡大しました。なので回転率や提供を速くする為に1分1秒でもオペレーションを切り詰めています。逆にモスバーガーでは高級路線ですので、味にも拘り、パンやバンズも一つ一つ丁寧に調理します。店内も他のチェーン店よりゆっくりくつろげるようになっています。

ここで、もし仮にそれぞれのスタッフに仕事の「普通」「良い」「悪い」を聞いてみたとしましょう。そうすると全く違う答えが返ってくると思います。

Graph_3

また、会社の方向性が仮に以下のような位置に進んでいきたい場合があったとします。そうなると善悪の価値基準ってまったく変わってくるんですよね。特に管理者、指導者の側からしたら尚のことです。褒めたり叱ったりするタイミングが、この2軸上の場合に限っては逆になるわけですから。

このポジショニングは、個人間、グループ間、国家間でも同様のことが言えます。つまり何が言いたいかというと、「普通」「良い」「悪い」というものは、どこまでいっても相対的なものであって、もっというと個人的なものであるのです。

つまり、僕とあなたの「普通」は全く違うという、それこそ普遍的な事実がそこにはあり、だからこそ、僕もあなたも異端であり、また、普通状態と言える訳です。

この事から言えるのは、「普通、○○だよね」と言われた時は、文字どおりの、普遍的とか遍くという意味では全くなく、逆に、言った本人の思考回路の事を指していると言っても過言ではありません。

なので

「それは普通に考えてダメだよ」
「はい!(そうか、普通はダメなのか、僕も気をつけなきゃ)」

ではなく、

「それは普通に考えてダメだよ」
「なるほど!(この人はこういう風に考えてるのか、であればこの人の前では気をつけよう)」

が正解になります。

因みに「なるほど」という言葉は肯定でも否定でもなく、事象の承認になるので、返答に困った時の相槌に便利です。

また、逆に人を説得したい時は「普通」という言葉は使わない方が良いと言えます。その場合は「数字」などの客観的な理由を使うか、「偉い人の言葉」を使うのが良いと思います。

つまり、

「それは普通だめだから気をつけてね」
「はい!(僕はそうは思わないんだけどな・・)」

ではなく

「(みんなが尊敬する)○○さんが言ってたんだけど、これをするようになってから調子良いらしいんだ、僕も気をつけてるんだけど、あなたも気をつけたほうが良いよ」
「はい!(そうか、それなら気をつけないとな)」

こちらも補足ですが、「偉い人の言葉」を利用する方法は「第三者話法」または「マイ・フレンド・ジョン」とも言われます。嫌味や押し付けがましくなく、また、敵を作らない手法ですので営業職でなくても上手に使用出来るようになると良いと思います。

実は、たったこれだけの事実を知っているだけでも、人の深層心理をある程度推測出来るんですよね。ただ、これらは悪用はしないほうが良いと思います。何故ってのはやはり僕には言えないんですが。。

これに平行して、儒教における中庸の考え方についても書きたかったりしてたんですが、また後日。

一つだけ言えるのは上記のような「普通」を指すのではなく「もっと個々人のもつユニークさがセカイと調和している」ものになります。何となくエネルギーの質が違うという事は分かるのではないでしょうか? 何故か自分の意見を言うとケンカになるとカン違いしている人も居ますが、上記のようなベースを守っておけば争いにはならない筈です。

それでもちょっかいかけて来る方がいらっしゃいましたら、まあ、あなたの世界に必要ないものだと思いますのでほっときましょう 笑。恐らく勝手に自滅すると思いますので。

寧ろ逆で、自分の意見を押し込めるからこそ、自分にしかできない目の前の課題を遠ざけ、からまり、行き場のないストレスは刹那的に発散するか逆ギレで顕現し、どうにもならなくなったそれらは他者の責任にする事で、つかの間の精神の安定を図るものなのです。

世界の争いの発生源をたどってみたとしても、まあこんな感じです。小さな原因の本質を直視してなくて絡まった小さな知恵の輪を、どれ解いてやると、大きなところが解き方の説明を聞かないまま(聞けないまま)手当たり次第に動かしたり付け足したりして、よけいに絡まっていくのです。

どうせ僕もあなたも逃げ場はないんです。で、あるなら課題解決は早いほうがラクですし、後ろ向きよりは前向きのほうが楽しいし、もし解決出来れば以降スッキリ遊べるし自由になるんですよね。

いつかあなたにとってのホントの自由が手に入る事を願っています^^。


コメントは受け付けていません。