
あけましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願いいたします^^。僕はまだ明確に目標をたてていませんが、二兎を追わず、目の前のことを楽しくクリアできていければいいかなと思っています。今回は言葉について。
所謂良い言葉、みたいなものって僕ら凡人が取り扱うと他者に対して厳しさやストイックさを要求するようなものになりますよね。それって何でですかね?
エジソンの有名な言葉「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」は、努力をする事の賛辞と受け取られていますが、実際には「私は1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄になると言ったのだ。なのに世間は勝手に美談に仕立て上げ、私を努力の人と美化し、努力の重要性だけを成功の秘訣と勘違いさせている」という発言を会見の席で残しています。
耐える事を美徳とするのについては、むかしに日本人はみんな「おしん」が好きだから、と教えられましたが、この苦行を同調圧力で押し付けていくスタイルは現代において悪い方向に顕現されているみたいです。むしろみんな「俺はこんだけやってる(やってた)のに、他の人は何やってるんだ」と、努力の無理強いをされているように見えます。
報告・連絡・相談、いわゆる「ほう・れん・そう」ですが、一般的には報告、連絡、相談は新人に必ずしなさいと教育するもので、上司へのマナーとされています。
しかし、wikiで語源を確認すると「管理職が「イヤな情報、喜ばしくないデータ」を遠ざけず、問題点を積極的に改善していくことで、末端社員の意見や提案が伝わる「風通しの良い会社」をつくる手段として報連相を勧めており、部下の努力目標ではないという」ことのようです。
つまり、部下に早めのリスクを言いやすくする環境を作る必要を説いているんですよね。実際に、ここら辺を臭いものとして蓋をして表面を取り繕うと、その歪みはかならず組織のぜい弱なところに出ますので、結果、人がバタバタ倒れていく事になります。
カラダに例えて言うと、それは一時の楽しさを求めるためにお酒を毎日がぶ飲みして、オーバードーズを起こし、全体の機能不全を起こすようなものです。ちゃんと肝臓の話を聞いていたら、健康な身体(組織)を維持出来るわけです。
世の中の不条理に平常心でいられる事は大変重要な事です。ですが、それを当たり前の事とし、自己犠牲を美徳とするような考え方はお互いの破滅しか生みません。それは聖人君子とは言いません。ただの思考停止か、もしくは所属コミュニティのブラック化への肯定的関与です。
こういう事って表面化すると被害者と加害者で、明確に区分けされますが、結局どっちもどっちなんですよね。表面でイヤだと言いながら、もし抜けられないとしたら、潜在意識でここ以外に生きる術がないからとか、指示される立場、被害者の立場のほうが安心するからなどの理由などで、所属を求めているものです。だから加害者(?)のほうも、命令したり被害者という立場を与えてあげていたりしてるんですよね。
そして、事業やプロジェクトの本当のリアルは、平均95%失敗するミッションで失敗の原因を、不況や災害や他人のせいにして同じ「失敗を再現」している中で、5%は本当の原因を見たくない自分の過ちも含めてつぶさに分析、運用し、同じ「成功を再現」しているんだと思います。つまり、外面は成功率5%でも、個人にフォーカスするとずっと成功率100%と0%の人がいるという事です。
管理職の側も、もし行き詰まりが発生しているようでしたら「臭いものの蓋」を開けるチャンスかも知れません。どのみち開ける必要はあるかと思いますので、早めに開けたほうが気が楽なものでもあります。また、その行為そのものが人生のレールのスイッチャーを好転的なものに導くカギになるかも知れません。
掃除とかって一気にやるとしんどいですが、細かく掃除して習慣化すると楽なんですよね。そしてその状態が楽しいになっていって、誰も何も言わなくても楽しい事なら長続きしますしね。
何かのヒントになれば幸いです。