出口王仁三郎さんを調べたら、かなり面白かった件と、予言についての考え方について

出口王仁三郎さん、ちょっと気になってwiki読んでみたらすごく面白い方で物語を読む感じで一気読みしてしまいました。知る人ぞ知る近代史に残る偉大な宗教家です。

出口王仁三郎 – Wikipedia

なんというか、僕はこういう方に魅力を感じてしまうようです。wiki読んだ感想、言い方として正しいかは分からないですが、火の鳥 鳳凰編の我王に何か似てません?? 経歴からも分かる生命力の強さや芸術性の高さとか独自の美意識とかユーモアのセンスとか。

また、更に良いなと思ったのが、宗教がなくなる世が弥勒の世と論されている所です。組織運営やビジネスマンとしての才覚は世界規模でもかなり高い方と見受けられますが、こういう超越した言葉を発せられるあたり、ただの俗人とは一線を画しています。

そして、予言。所謂終末思想的なものとは違い、突き抜けてフラットな、それでいて愛のある印象を受けます。同様な予言としてはヒトラーの予言などもありますが、どちらにも説得力を感じる反面、受ける印象としては全くの真逆です。

詳しくは、愛善苑 岡山分苑様のページに記載されていますので、そちらを参考にして頂ければと思いますが、予言への考え方として大変参考になる文章がありますので、それを引用させて頂きます。

「…(前略)… “峠” を越えた向こう側 —— つまり物質文明が否定されるのでなく、それがもっと高い次元に押し上げられた新しい時代のことを、大本では “松の代”、”神国の世”、”みろくの世” という。この理想世界の実現はもう目の前に近づいており、これを知らせることが《立替え立直し》のキイ・ポイントである。みろくの世に近づくためには、《立替え立直し》の “峠” を越さねばならない運命を《いやおう》なく背負わされているが、各国家、各個人により、またそれぞれの心の動きや体力の差異などにより、おのおの越える度合いが違ってくる。荷物の軽い人・重い人・足の強い人・弱い人・鼻うたまじりで越えうる人・息も絶えんばかりにあえぎあえぎ越える人、さまざまな状態が見られるわけである。すでに峠越えは始まっているのだが、自分を含めて現実の周囲の状況というものは案外つかみがたいのかもしれない。
また《立替え立直し》を、自分以外のこととのんきに考えてはならない。実は自分自身の問題なのであって、《立直し》が完成する時期はいつか、などということを考える人もいるが、その本人自身が《立替え》に励むことの結果として、本人そのもののうえに《立直し》が実現してくるのだ。出口王仁三郎の歌にも『立替えを世人のこととな思ひそ立替へするのは己が心ぞ』とある。
問題は、立直された “みろくの世” というものを願うのはいいが、”みろくの世” は物欲や利己主義の延長にはない。地上天国といっても、これまでの物欲中心の享楽的な時代の再現ではないのだ。《立替え立直し》は、或る区切られた時間内での問題ではなく、実は人類が存するかぎり永遠に続く問題であるとともに、現時点での問題でもある。また、漠然とした人類全体の立替え立直しということにとどまらず、自分自身の問題であると受取らねばならない。だから立替え立直しは、つねに進行過程にある。楽は苦とともにあり苦は楽とともに存在するものとは、王仁三郎もしばしば語っている。この点を間違えると、甘いユートピア願望の心情でしかないことになる。『世のはじめ世の終りなるみろくの世なるもならぬも心なりけり』と出口すみもうたっている。…(下略)…」(『予言・確言』出口和明著)

「愛善苑 岡山分苑 – 出口王仁三郎 – 王仁三郎の予言」(2015年12月時点)

まあ、僕の宗教観がこれこれなんで、一般には当てはまらないかもですが、王仁三郎さんが遺した言葉は少なからず今後の参考になると思いますので、記事にしてみました。

王仁三郎さんみたいな方をトリックスターというそうです。確かに近代史の方でありながら神話の世界を彷彿させますよね。


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