脱・宗教論

また物議を醸しそうなタイトルを…と、思いの皆様こんばんは☆

宗教については、誰もおおっぴらに書かないけど誰しも違和感をお感じになられている事もあることかなと思います。勿論各宗教によって凄く良いところも良い事をしているというのも知っています。

そこで今回は、あくまで「個人の幸せ」を一番にフォーカスした、誰にも何処にもカドが立たない宗教の考え方を書いていこうと思います。

まず、先に結論を言います。

宗教は、人を幸せにしません。

……ピンポーン

おや、誰か来たみたいですね。まあ無視して先に進めます。

ちょっと言葉足らずで言い方を変えます。組織化した宗教ひとつ「のみ」に固執するのは最終的には人を幸せにしません。つまりどういう事かというと、例えば法人(企業・宗教を含む)を考えてみれば分かりやすいかと思います。

何処の組織にも組織図ってありますよね? あのトップから派生して各機能から更に派生する、あの樹形図です。法人は当たり前ですが、理念以前に最優先しなければならない事項があります。

それは、組織の存続です。理念を遂行することもそうですが、その為にちゃんと機能するような仕組みが組織図として現れる訳です。そしてそれらは大体命令系統が分かりやすい、トップを上に置いた山型のヒエラルキー構造になっていると思います。

それについてはその方がスムーズですし、まあ別に問題ないんです。ただの機能としての山なんで。

問題があるとすれば、その人自身がその山しか見えてない場合です。そうすると、その人の中でどうなるかというと、山のトップだけが唯一のトップであり、その道中だけが自分の人生になる訳です。

他にも山が見えてるのであれば、今の山が自分にとって合わないなと思えば、例えばもっと高い山、或いはもっと登りやすい山と変更できる訳です。試しに複数の山を同時に登ってもいいかもしれません。

人によっては、山を自分で作るぞ! なんて人もいるかも知れませんし、登らない選択肢もあるかと思います。

人の運用する組織は、当たり前ですがどの組織でもトップ又は担当者の示威や思惑があり、派閥争いや覇権争いは絶えずあります。それは宗教法人も例外ではありません。だって僕を含めて誰でもちょこっとは優越感や名声欲はありますよね? なめられると運用に支障もきたしますし。

そういう意味では企業もそうなんですが、まだ企業の場合は、従業員に変な事すると業績や離職、はたまた倒産など明確な数字に出ますので大手であるほど変な事は出来ないと思います。しかもお金を貰って働かせてもらってる訳ですし。

ただ宗教の場合は、それ一つ「のみ」にのめり込んだ場合、幸せでない=信仰が足りない、のような数字で表せない雰囲気のようなもので納得でき、神様がいうのなら、という誰も批判も出来ないような根拠が通じてしまう訳です。

例えば人の手が入ると99%真実だったとしても、1%は示威が入る訳です。んで、その示威が苦しみの元になるんですが。それでもこれは人の業なのでしょうがなく。

つまり、結局のところ何かおかしい事になった時に、逃げれないのが問題というより、その人に逃げる選択肢そのものがそれ「のみ」に固執していると無いというのが一番の問題なのかな…と、思います。

最後にフォローしますと、宗教・企業問わず、素晴らしい方は沢山いらっしゃっいますし、教えや理念も凄く参考になるものもたくさんあるという事は事実です。

それでも、それだけしかない。それしか正しくない、はあり得ません。

結局のところ、やっぱり行き着くところはそれを利用する人なのかな? と、思ってしまいますね。

どんだけのめり込んでても、どれだけ人生賭けてても、どれだけその人や対象が好きでも、どれだけその人や対象に嫌われるのが怖くても、何か一線を越える前に何処かで一歩引く勇気は持ち続けたいです。僕もね。

また、その山しか見えてない方には、周りを見れば他にも山あるし、世界は広いよとだけ、お伝えしておきます。

こんな事書いたとしても、ぼくは前書いた通り神様なんてしったこっちゃ無いのです。また、これで呪われる、呪われろとお思いの方には神様ってそんなに懐ろは浅いんですか? という疑問を投げかけておきます。

祈りなんて格式ばって儀式的にやらなくても、本当に良くしたい、あなたを助けたいという皆様のふとした祈りは、例え小さなものであったとしても積もり積もって時間を超えてあなたの元に届くものなのです。特に宗教というカタチにとらわれなくても。

ちなみに今回は、あくまで個人の幸せを至上命題に充てましたので、こんな書き方になりました。ビジネスの観点からだと全く違う結論になりますけどね 笑。

それも、タイミングあれば書いていこうかなと思います。


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